気を使わない日本人

■今日は先日の出張で思った「気を使う日本人」と「気を使わない日本人」についてお話したいと思います。

■よく日本人はイエス/ノーをはっきり言わない民族だとみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか?それは「察しの文化」とも言うべき日本文化を象徴する一つの事例だと言われています。

■自分の考えをストレートにぶつけることは時として相手にとって失礼にあたる、もしくは自分の考えを強く主張しすぎるのは協調性に欠ける、といったことがその考え方の背後にあるのだと思います。

■それがグローバルなビジネスにおいて、コミュニケーション上の障害になってしまうことは多々あるわけですが、私個人としては、日本人独特の「気遣いの文化」として大切にすべきものと考えています。

■今日お話したいのは、そういった意味での日本人の「気遣い」ではなく、自分と関わりがない他者に対する日本人の「気遣いのなさ」についてです。

■海外に行くと、飛行機に乗ったり、電車などの交通機関に乗ることになるのですが、人で混み合った場所にも行くことになります。そうすると当然肩がぶつかるとか、どちらかが道を譲らなければならないような状況にもなるわけです。

■あまり海外に行ったことのない人は想像できないかもしれませんが、例えば海外で誰かと肩がぶつかると、国にもよりますが、かなりの確率で「すいません(I am sorry.)」とお互いが顔を見合わせ、一言お詫びの言葉をかけます。全くお互いを知らなくても、礼儀として一言言葉をかけるわけです。

■これは礼儀としては当然のものとも思えますが、私が日本に帰ってきたとき、日本人があまりにこの基本的な礼儀さえも守っていないのを目の当たりにして驚きました。駅にいても、電車に乗っても、かばんを持ったサラリーマンが多数いて、一見急いでいるように見える彼らは、体もしくはカバンが人とぶつかるのもお構いなしで、ぶつかっても振り返りもせず、お詫びの一言を言うこともありません。

■もちろん忙しいとか、疲れている、もしくは人が多すぎていちいちお詫びの言葉など言ってられないという事情もあるのだとは思います。しかし、それなりの年の大人が人とぶつかっても何も言わずに通り過ぎて行く様子は、見ていてあまり気持ちのいいものではありません。

■日本人はコミュニケーションにおいて気を使いすぎるといわれることもあるわけですが、その「気遣い」は微塵も感じられませんでした。おそらく外国人の方がそれを見れば、「日本人はなんて人に気を使わないんだ」と考えるのではないかと思います。

■概して、日本人は繊細、外国人は大雑把というような漠然としたイメージを日本人はもちがちですが、ひょっとするとそれは日本人が日本人を美化した結果のイメージなのかもしれません。もちろん私もそのような状況を経験したことがありますので、それも一つの事実だとは思うのですが、逆に日本人の方が繊細でない部分があることも私たちは知っておくべきではないでしょうか。

■知っている相手の前でだけ礼儀正しくするのではなく、常日頃から誰に対しても礼儀正しくあるということは、ビジネスで成功するためには必須のことだと私は考えています。

■常に礼儀正しくあろうという気持ちがあるからこそ、見落としがちな細やかなことまで配慮ができると思いますし、必要な場面でだけ礼儀正しくする人は必ずどこかでボロがでるものです。

日本帰国

■ 先日海外出張より帰国しました。今回はほぼ一人旅となりましたが、多くのことを学ぶことができました。今日は私が出張中に感じたコミュニケーションについてお話したいと思います。

■ 基本的には今回の出張ではほとんど英語を使うことになったのですが、皆さんは日本語以外の言語で仕事を進めた経験をお持ちでしょうか。

■ もちろん日本語並みに英語を使うことができる方もいらっしゃることと思いますし、そうではなく苦心しながらなんとか意思の伝達をしているという方もいらっしゃると思います。

■ 私はといえば、どちらかといえば苦心して意思の疎通を図るタイプでしょうか。それほど流暢に英語を話せるわけではないので、すました感じではなく汗をかきながら一生懸命に説明をしなければいけません。

■ 海外で仕事をする場合、言語というのは一番大きな壁なのかもしれません。しかし、私は言語の壁というのは、その言語を上手に話せるかどうかではなく、いかに相手に内容を伝える能力を持っているかどうかなのだと実感しました。

■ つまり、どんなにたどたどしい英語であっても、その内容がきちんと伝われば、内容が伝わらない流暢な英語より良いのだということです。これは当然のことのようにも聞こえますが、多くの日本人は実際に海外に行くと「たどたどしい英語=コミュニケーションできない」という方程式を自分の中で確立してしまい、内容を伝える努力を放棄しているような気がします。

■ どんなにみっともない形になっても、伝えたいことをしっかり相手に伝えること、それが本当の意味でコミュニケーションなのです。伝えるべきことを伝える能力はそういった形でしか育めないものだと私は考えています。

未体験ゾーンに突っ込んで、一歩踏み出すこと

■皆さんこんばんは。今までこのブログの中で言ったかどうか覚えていないのですが、私は海外関係の企業に勤務しています。職種を言えば、いちおう営業ということになるのですが、実際はパソコンに向かって、英文Eメールの作成に時間を費やしたりしています。

■何故そのようなことをいまさら言うのかというと、来週から海外出張に行くことになり、今日はそのお話をしようと思っているからです。

■海外出張と聞くと、なかなか聞こえはいいかもしれませんが、実際はそんなに華やかではなかったりします(中には華やかなのもあるのかもしれませんが…そんな出張に行きたい)。海外の複数の人と日程調整したり、話すべき議題を考えてその資料を集めたり、持って行くべきものが揃っているか確認したりと、事前準備にてんやわんやです。

■そして、それ以上に「果たして自分が海外の取引先に行って、一人で交渉・会議をまとめて結論を出すことができるのか?」という不安を常に抱えてすごしています。

■これも場数を踏めば要領を覚えるなどして、余裕が出てくるのかもしれませんが、今回私ははじめて一人で海外出張に行くため、まさに全てが「未知」なのです。英語は普通に話せるレベルである「はず」の私ですが、日常英会話とビジネス英語では勝手が違うこともあり、まずきちんとコミュニケーションを取ることができるかどうか不安で、そして議題はある程度決まっているとはいえ、出張先でどんな会議になるのか想像ができず不安です。

■そんなわけで今日一日を不安にかられながら過ごしていたのですが、だからといって出張に行きたくないわけではありません。不安はあるものの、誰しも必ずこうした経験をしなければいけないからです。

■海外の取引先と仕事をする人は、いつかは一人で交渉をまとめる役を引き受けることになると思いますし、こうした仕事をやり遂げられないようでは一人前とはいえません。

■私の場合もしかりで、いつかはこの経験をしなければいけない時がやってくると考えて、今は「できることを精一杯やろう」という気持ちでいます。

■こうした経験は人を大きく成長させる契機だと私は思っています。今までやったことがないこと、自分には想像できないこと(つまり自分の力量を超えていること)に挑まなくてはならない状況が揃っているからです。

■それを完全にやりきることができるかどうかは私にはわかりません。しかし、そうした状況に身を置いたことがないのと、完全に成功させたかどうかは別にして、そうした状況で精一杯力を尽くそうとしたことがある人では、仕事の次元が一つ違ってくるのではないかと思うのです。

■とは言いつつも、今の私は不安感でいっぱいなのですが、せっかくのチャンスですので、目一杯自分を追い込むような高い目標を立てて出張に挑みたいと思います。

※出張中もできるだけブログをアップしようと考えておりますので、よろしければご覧になってください。

このブログを少しでも面白いと思って頂いた方は、せっかくのご縁ですので、下のブログランキングの投票をぽちっとお願いします。↓
人気ブログランキングhttp://blog.with2.net/link.php?426353
ビジネスブログ100選:http://biz100.jp/blogrank/in.cgi?sno=xiW0hlEE

『「超」発想法』 野口悠紀夫著 その2


1. 知識をできるだけインプットし、考え続けること。
2. 模倣すること。

■先日は、この本で特にご紹介したい2つの教訓の一つ目である、「知識をできるだけインプットし、考え続けること。」についてお話しました。

■今日は、2つ目の「模倣すること。」についてお話したいと思います。

■皆さんは「発想」と聞くと、何かしら誰も考え出したことがないことを思いつくこと、と心のどこかで考えておられるのではないでしょうか。つまり、完全なオリジナルである考えを思いつくことこそ、「発想」であると。

■しかし、本当にそうでしょうか。筆者はそうは考えず、むしろ模倣することを奨励します。「発想のためには、関連する情報や知識が必要だ。だから、知識が多い人ほど、新しい組み合わせを見出す可能性が高まる」と筆者が言うように、創造のためにはまず知識が必要です。その知識を様々なやり方で組み合わせることで、人は始めて創造的な発想に至ることができるのです。

■もちろん全く無の状態から、発想することができる人もいるかもしれません。しかし、ほとんどの人は何かしら模倣を行うことで知識を習得し、そこから創造性を発揮するものです。本書の中で、かのモーツァルトでさえ、はじめは模倣を行っていたことが紹介されています。ただし、モーツァルトは模倣の天才であったのであり、模倣を行う中で模倣を超えて、それをオリジナルまで昇華させたのです。

■模倣は、模倣それだけでは創造的とはいえません。しかし、模倣することで先駆者の知識だけでなく、方法論さえ吸収することが可能です。知識をできるだけインプットし、模倣からさらに知識と方法論を学ぶことで、私たちはより多くの知識の組み合わせの可能性を見出すことができます。この可能性が思考の中で結実する瞬間こそが発想の瞬間であり、より多くの知識を持つ人ほど、その瞬間に至る可能性が高いのです。

※先日ご紹介した『仕事は、かけ算。』の中でも同様の内容が語られています。つまり知識を詰め込めるだけ詰め込んで、徹底的にまねをすることが、自分を成長させ、クリエイティブであるるために最も有効であると述べられています。

「超」発想法 (講談社文庫)

「超」発想法 (講談社文庫)

仕事は、かけ算。 ~20倍速で自分を成長させる

仕事は、かけ算。 ~20倍速で自分を成長させる

『「超」発想法』 野口悠紀夫著


■今日は『「超」発想法』をご紹介します。

■発想力を向上させるための様々な教訓を得ることができる良書として、大変興味深く読ませていただきましたが、ここでは、私が特に重要と感じた2つの教訓についてお話したいと思います。

1. 知識をできるだけインプットし、考え続けること。
2. 模倣すること。

■まず一つ目の「知識をできるだけインプットし、考え続けること」ですが、よくいい発想をすることができるのは、リラックスしているときだ、という話を聞きます。解釈の仕方によっては、何かを考え出そうとするときは、一生懸命に考えるのではなく、ただリラックスしていればよい、と誤解されがちです。

■しかし、実際はそうではなくて発想のプロセスとは、筆者曰く「没頭期」「潜伏期」「啓示期」を経なければならないのです。

■人間の脳はとてつもない量の情報を自動的に処理し、必要な情報だけを意識上に浮かび上がらせる機能を持っています。そのためには、あらかじめ大量の情報をインプットしておかねばなりません。インプットする情報は多ければ多いほど良いのです。それこそ頭がパンクするほどインプットすることが必要です。

■そしてその上で、自分が捜し求めている答えを考えに考えます。意識的にそうすることで、大量にインプットされた情報が整理され始めます。しかし、それだけではなかなか発想までたどり着くことはありません。

■その「没頭期」「潜伏期」を経て、「啓示期」が訪れます。情報を大量にインプットし考え続ける中で、人間の脳は自動的に情報を整理していきます。そして、考え続けた人がふとリラックスした時に、アイデアが閃く瞬間が訪れるのです。

ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て、万有引力を発見したと言われていますが、それまでりんごが木から落ちるのを見た人は数限りなくいたはずです。しかし、ニュートン万有引力について考え続け、それに関する知識を収集していたからこそ、りんごが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見することができたのです。

■私たちが何か発想を求めるとき、バックボーンとなる知識がなければ、何も発想することなどできません。必要なのは、知識をできる限り収集し、そしてその主題について考え続けることなのです。知識を収集する「没頭期」、考え続ける「潜伏期」をへて、閃きの「啓示期」にたどり着くことができるのです。

■次回は「模倣すること」についてお話します…

できない理由を外的要因に求めないこと

■今日は「できない理由」について考えてみます。

■普段私たちは仕事で「できない」ことや失敗に遭遇しますが、なにかと自分が悪くないことを証明する理由を考えてしまうものです。私たちは不思議と「できない」原因を考えることに長けています。こんなに頑張ったのにできないのは何々のせいだとか、このプロジェクトが失敗したのは誰々のせいだとか考えてしまうものです。

■私は現状に満足できない状況に遭遇するとき、それをなるべく外的要因に理由付けしないようにしています。

■というのも、大切なのはこの失敗という結果に自分がどのように関与したのか、自分のどのような行動がこの結果を導き出す要因となったのかを考えることで、自分を見つめなおすことなく外的要因に原因を求めれば、ただ単に人のせいにしてしまうことがあるからです。

■自分が少しでも主体的に関与していれば、必ずなんらかの影響を及ぼしています。影響を及ぼしている限りは、そこに必ず責任が生じます。私は、人が「できない」理由を外的要因に求めるのはこれが原因ではないかと考えています。つまり、「責任を逃れたい」という無意識の気持ちが、自分の主体的関与から目をそらさせ、自分以外の何かのあら探しをさせていると。

■だからこそ、私は何かを「できない」時、自分の行動・言動をもう一度振り返ることにしています。些細なことが大きな失敗につながることもあるからです。見方によっては、ネガティブだと思われるかもしれません。しかし、実際はそんなことはなく、常に自分を見つめ、正していこうとする姿勢はポジティブなものです。

■自分の中に「できない」原因を求める習慣をもたなければ、また自分以外に原因を求める習慣を改めなければ、自分の成長の機会を逃すことになります。なぜなら自分に責任がないと他人事のように片づけてしまい、せっかくの自分を正す機会を失ってしまうからです。

■私たちの日常には、こうした自分を正す機会にあふれています。しかし、自分と向き合うことをしなければ、その機会を失ってしまうことになりますし、それを行う人と行わない人とでは長期的に見れば、歴然たる成長の差が出るのではないかと思います。

『ポスト資本主義社会』P.F.ドラッカー

■今日はP.F.ドラッカー著『ポスト資本主義社会』をご紹介します。

■いわずと知れた著名経営学者であるドラッカー氏の著作ということもあり、経営学のみならず、歴史・社会といった多角的視点から経営について論じられています。この本は、資本主義社会の後、私たちが迎える「ポスト資本主義社会」をどう生きるべきかを教えてくれます。

■あまりに内容が濃く、全てをご紹介することは到底できませんので、今日は私たちが持つべき「資源」としての「知識」についてご紹介します。

■資源といえば何を皆さんは思い浮かべるでしょうか。エネルギーの観点から見れば、それは石油・石炭・ガスなどであり、企業活動という視点から見れば、資本・労働力・生産設備などが挙げられます。これらすべてに共通するのは、これらが「何かを動かす原動力」であることです。

■石油や石炭が動力源となることは容易に想像できます。また、企業活動における資本・労働力・生産設備は、企業が企業活動として価値を生み出す必要要素です。

■しかし、ドラッカーはこれらの資源はすでに経済活動の中心的資源ではなくなりつつあり、新しく「知識」がその座を占める中心的資源になりつつあると主張します。それは、現代の企業経営において必要とされるのが、労働力や設備ではなく、それをどう使うかという「マネジメント力」「イノベーション力」といった「知識」の使い方に移っているからです。

■例えば製造業においては、生産設備は過剰なレベルに達しており、日本で生産設備を持つこと自体の価値は薄くなってきました。日本が優位を保ってきた製造業においても、中国や他のアジア諸国への生産移管・生産委託がどんどん進んでいます。これは生産コストを下げるという合理化策ですが、見方を変えれば、同じものを日本以外の国でも作れる時代になったということの裏返しでもあります。

■どこでも作れる製品はかならず価格が下落します。中国などの製品が価格破壊を起こしてしまうからです。そこで経営者に求められるのは、いかにたくさん生産するかではなく、いかに既にあるもの(設備・労働力)を利益という観点から有効に活用できるか、というマネジメントの能力であり、いかにそれらを今までにない方法で組み合わせるか、というイノベーションの能力です。

■いまや私たちは、中国の工場に生産を依頼し、それを物流業者に運ばせることで製品に指一本触れずに製品を末端のユーザーまで届けることができます。私たちは工場をもたず、輸送手段をもたずとも製品を生産し、届けることができるのです。ここで最も利益を生む可能性があるのは、工場でも配達業者でもなく、そのビジネスの枠組みを考える私たちであり、「知識」の使い方を知っている者なのです。

ドラッカーが「知識」の重要性を説くのは、これから利益を生み出すのは生産設備や労働力をもつことではなく、(それらはいまや世界中にすでにあり、すぐに「使う」ことができるのだから)いかに革新的なビジネスの枠組みを考えることができるか、もしくは企業組織を構築していくかという能力だからです。それに必要なものは、つまり企業活動において価値を創りだすために必要な源泉は「知識」なのです。


これまでにご紹介したビジネス書はこちら↓

http://astore.amazon.co.jp/pd0c-22